大往生

Sumiです。

しばらくご無沙汰しておりました。

実は、祖母が危篤との知らせを受け、最期を看取っていたのです。
祖母は5月25日(日)に永眠しました。91歳。大往生でした。

私は生後から3歳まで両親と共に祖父母と暮らしていました。
「寿美子はおばあちゃんっ子でね、
 私の後を追うよりばあちゃんの後ばかり追ってたんだ~」
これが母の口癖です。

そんな大好きな祖母の命が消え行く姿を看取ってきました。
今思えば、二日間傍にいられたことは幸せなことだったと思います。
しかも、病院ではなく祖母の自宅で。
様々な葛藤がありましたが、亡き祖母への想いと共にここに記しておきたいと思います。
長いです。ご容赦ください。

*********************************

祖母は大正12年生まれ。4月13日に91歳になったばかりでした。
呉服屋の長女として生まれ、夫が婿養子に入り家業を継ぎました。
2男2女に恵まれ、戦前、戦後、高度成長期を生き抜いてきた女性です。
私の父は長男で終戦の年の秋に生まれました。空襲から逃げる時、祖母は大きなお腹を抱え、車窓から電車に乗り込んで逃げたと生前、良く話してくれました。その頃、夫である私の祖父は、陸軍の兵隊として中国に行っていましたので、女一人で赤子をお腹に抱えての避難は想像を絶するほど大変だったことと思います。

戦前、若い頃は実業団のバレーボール選手だったそうです。赤ワインが大好きで洋食を好んで食べてました。お洒落好きなのは今も昔も変わりません。寝たきりの介護生活になってからも美容液は欠かさず塗ってもらっていたそうです。そのおかげか、祖母の顔はとても90歳を過ぎた女性には思えないツルツルの肌でした。

祖母は昨年まで元気でした。ところが、昨年、トイレから出た直後に杖を滑らせ転んでしまい、右腕を骨折してしまったのです。たかが骨折・・と思いがちですが、90歳にもなると骨は元に戻らないそうで、固定しておくしかありませんでした。
結局、この骨折が引き金となり、どんどん弱っていったのです。杖を突いていた右腕が使えなかったので、車いすで移動するようになりました。その後、次第に寝たきりになってしまったのです。さらに病院の検査で大腸がんが見つかり、余命は年内と告げられました。体力がないため手術はできませんでした。自宅に帰りたいという祖母の希望を叶えるため自宅療養が始まりました。一緒に暮らしていた私の叔父と叔母が病院と連携しながら介護を続けてくれていました。

私が駆け付けた深夜(亡くなる二日前)、祖母は今にも息を引き取りそうな状態でした。叔父と叔母と私の両親が私が来ることを祖母に告げ、必死に声掛けをしたり、体をゆすったりして、死期を延ばしくれていたのです。そんな状態でしたので、到着して祖母の手を握りしめた時は、このままドラマのように息絶えてしまうのではないかと思ったほどです。しかし、祖母の呼吸は次第に安定し、私が到着してから二日間生き抜いてくれました。

危篤状態の時、祖母はすでに飲み込むことが出来ない状態でした。食べ物はもちろんのこと、水も与えることができません。湿らせた布で口の周りを拭いてあげたり、歯を拭いてあげるのが精いっぱい。点滴による延命治療を祖母は希望しませんでしたが、希望した所で、身体は吸収することができず、皮膚がぶよぶよになるだけだったそうです。元気になるように何かしてあげたいのに何もできません。口を開けてゼイゼイ息をしている祖母の傍で、ただただ弱りゆく姿を見守るしかできませんでした。

祖母の危篤をきっかけに、祖母の3人の子どもたち(私の父を含む)はもちろんのこと、孫6人(私を含む)の夫婦たち、ひ孫6人、祖母の姉妹、その子どもたち3人が続々と集まりました。一番多い時で総勢15人は家にいたと思います。
夜は叔父と叔母、私の両親、私と娘の6人が残って見守りました。危篤と告げられた夜は完徹し、二日目の夜は交互に短期間の睡眠をとりながら一晩中見守りました。

祖母が息を引き取ったのは危篤状態に入ってから三日目の昼のことでした。もう一日頑張れるのでは・・・と思っていた矢先の出来事でした。周りでは、ひ孫たちが踊りながら映画「アナと雪の女王」の「ありのままに」を熱唱していました。祖母はその歌を聞きながら眠るように天国へ旅立って行ったのです。主治医は「老衰」と診断しました。

いつ訪れるかわからない死期を待つというのは非常に耐え難いものがありました。手の施しようがなく見守るしかできなかったからです。大人だけだったら、どんなにどんよりとしていたことでしょう。幸い私の娘を含めたひ孫たちがいてくれたおかげで、日中はとても賑やかでした。祖母もひ孫たちの声に勇気づけられていたことと思います。

祖母が亡くなってからは本当にバタバタでした。
お通夜、葬儀を行う中で、非常に心打たれた出来事が二つあったので書き留めておきます。

一つは若手納棺師の存在です。
彼には不思議な雰囲気があり、リードは的確で安心感がありました。説明は丁寧で気配りがあり、かつ気品があります。彼に誘導されながら、私たちの手で祖母を美しく着飾ることができましたし、お棺に収められた祖母の姿は、まるで花嫁のようでした。感謝してもしきれない。本当にありがたい存在でした。私は葬儀屋さんの従業員だとばかり思っていました。しかし、後で聞いてびっくり!実は、彼は葬儀屋さんの甥っ子で、納棺師を辞めて東京から帰ってきたばかりの人だったのです。東京での仕事には思うことがあり、もう納棺師の仕事はしないと決めて帰ってきたそうです。そんな中、その日限定で、祖母の納棺師を務めてくれたのだそうです。ご縁に感謝です。

二つ目は霊柩車で町中を走っていた時のこと。
祖母が暮らす町は昔の宿場町です。2車線の街道沿いに旅籠や商店、家々が立ち並んでいます。
祖母の死は地元の新聞や回覧板を通して町中に知れ渡ったのでしょう。
霊柩車が通る時間を予測して、おじいちゃん、おばあちゃんたちが椅子に腰かけながら、街道沿いで待っていてくれたのです。
祖母を載せた霊柩車が通ると、杖を突きながら立ち上がり、合掌して見送ってくれました。
その姿は本当にありがたく、今でも私の目に焼き付いて離れません。祖母は本当に幸せ者だと思いました。

葬儀を終えて、東京に戻ってきた時は、東京を出発してから一週間が経っていました。
思いっきり泣いてきました。
家についた途端、どっと疲れが出てきました。
一週間も家を空けているとやること満載なのですが、思うように進みません。
ゆっくりゆっくり片づけました。
ようやくブログを書けるようになりました。

日々の暮らしは、山あり谷あり。喜びも悲しみもたくさんあります。
それでも祖母のおかげで今の私がいます。
祖母の死を乗り越え、祖母に恥じないよう、これからも精いっぱい生きて行こうと思います。

祖母の安らかな眠りを心から祈るばかりです。

花

にほんブログ村 ライフスタイルブログ 暮らしを楽しむへ

コメント

コメントをお寄せください。

コメントの投稿

* コメントフィード

トラックバックURL: http://kurashinbo.com/archives/8757/trackback